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2013年2月 4日 (月)

私が徳島ヴォルティスサポーターをしている理由

今日はパーソナルなことを書きます。といってもサッカーのサポーター稼業に関する話ですが。
毎年、この時期、特別な思いを籠めた記事を書いています。
ここ一年くらいで私のブログを読み始めた人には、毎年この時期、特に2月8日近辺の記事を読み返したら何について書いているかわからない記事が毎年あることに気づくと思います。
でも私にとって一年で最も大事に書いている記事なのです。
いつにも増して意味不明な文章になっていると思いますが。
 
とはいっても、昨年までのようにヴォルティス関係の人が読む人の殆どだった時と違い、今は千葉ジェッツ関係の人も大勢読んでくれているので何らかの説明というか、もう少し何について書いているのかわかるように書くことも必要でしょう。
今回の記事は、何故私が、生まれ故郷でもなく親類が縁あるわけでもない徳島のサッカーチームである徳島ヴォルティスを、その前身である大塚FCから応援しているのかについてです。
もう少し詳しく言えば、ヴォルティスを応援する理由になっているある人への思いについて語ります。
今回はその出会いから今に至るまでのことを初めて文章にして語ろうと思います。
 
 
今から20年前。1993年。
私は地元に誕生したプロサッカーチーム、柏レイソルの試合に通い始めていました。
所属していたのはJリーグの下のプロ・アマ混合のリーグ、ジャパンフットボールリーグでした。
スタジアムが家から歩いて五分ほどだったこと。世の中サッカーブームに沸いていながら、Jリーグのチケットは人気が高く買えず、でもそのチームのチケットは簡単に買えたことが通い始めたきっかけでした。
そして、その年のリーグ最終戦に遠い場所のアウェイゲームを観に行ってみよう計画しました。
行き先は高知の春野。
相手は大塚製薬サッカー部(以下、大塚FC)でした。
春野の球技場で私はある人物から署名に記名して欲しいと頼まれました。
その人は、大塚FCをJリーグに上げたいので署名をしていると言いました。
背が高くて、短髪で、感じのいい私と同年代の男性でした。
それがあの人に最初に出会った時でした。
 
大塚FCの応援はユニークで、大塚製薬の製品であるポカリやジャワティーの缶の着ぐるみを着ている人や、阿波踊りの鉦を使った独特なリズムの応援をしていました。
あの人はそういう大塚サポーターのリーダーのようでした。
しかし、そのときはそれだけの出会いでした。
 
翌1994年のリーグ戦で、大塚FCとのアウェイゲームのため、私は仲間たちと車で柏から徳島まで行きました。
そして、徳島駅周辺で球技場への行きかたを調べていたとき偶然あの人と再会しました。
初めて訪れた徳島で、あの人は、徳島の右も左もわからず迷っている敵のサポーターである我々にスタジアムへの行き方など、とても親切にいろんなことを教えてくれました。
すごく親切で、純粋にサッカーを楽しんでいて、それでいてすごく情熱を込めて大塚FCを応援していることが、その遠征のときよくわかりました。
 
その年、柏レイソルはJリーグ昇格を決めました。
昇格が発表になる日の朝、柏駅前では「めざましテレビ」の生中継がありました。
その番組中にレイソルサポーターが何人か喜びの一言を言うコーナーがあって、そこで偶然にも私も一言いうことになりました。
そして私は昇格の喜びを語った後、何故かこんなことを喋って全国ネットの生中継に乗せてしまいました。
「大塚製薬サッカー部のみなさん。かならずJリーグに上がって来てください。待ってます。」
当然これは徳島でも目に留まることになりました。
 
あの人と本当に親しくなったのは翌1995年の夏のことでした。
愛媛でベルマーレ平塚(当時、中田英寿が在籍)と試合があったとき、あの人は大塚サポーターの仲間をみんな引き連れて我々の加勢に来てくれました。
私はそのお礼に翌日徳島で開催される大塚FCの試合の応援に加勢することにしました。
私はあの人の車に乗せてもらい、徳島まで向かいました。
その途中で、あの人から大塚FCの現状、そして自分たちが今しようとしていることを教えてもらいました。
当時の大塚FCはその前年まで目標に掲げられていたプロチーム化、Jリーグ昇格が頓挫しようとしていました。
あの人たちは集めた署名を議会に提出するまで行ったのですが、当時の県知事が大塚FCのプロチーム化への県の支援を打ち切って撤退し、大塚製薬も単体で支えることは難しいためプロ化断念の方向へ大きく傾いていたのです。
プロ化したときの採算見込みが厳しかったのが理由でした。
残る手段としてあの人が考えたのが、大塚FCの強さを徳島県全体に理解してもらい、プロ化すべきである!と徳島世論を動かすこと。
そのためにリーグ戦を全勝優勝することで強さを証明する必要がありました。
そして、その試合まで開幕から全勝で勝ち進んでいた大塚FC。
相手はJリーグ昇格を目指して積極的な補強をしていた鳥栖フューチャーズでした。
真夏の晴天の炎天下、昼の13時からの日陰が全くない徳島市球技場での試合は選手はもちろん応援しているサポーターにとっても過酷過ぎる環境でした。
あの人達は選手達以上の精神力を発揮して応援していました。
しかし、試合は終了間際の失点で敗れました。
試合後、夢が砕けたみたいに号泣するあの人達の姿が、私は今も忘れられません。
そしてその彼らの姿を見て、私は大塚FCを応援していくことを決めたのでした。
 
翌年から本格的に関東圏以北での大塚FCの試合の応援に通うようになった私は、そこで出会った仲間たちとサポーターグループを結成しました。
それがヴォルティス関東隊です。
その後、ヴォルティス関東隊は、あの人率いるAWASOULと連携しながら、彼らが行かれない関東や東北の試合に駆けつけて応援をしました。
その過程で選手や、監督、スタッフとも仲よくなりました。
 
厳しい時代もありました。
Jへ昇格したクラブに主力をごっぞり引き抜かれたりしました。
そのせいで戦力がなく、勝てない試合も続きました。
ホームでの観客数も酷かったです。
大塚FC廃部が現実味を帯びた時期もありました。
関東隊のある仲間が急死する悲しい出来事もありました。
そんなときでも選手、監督、スタッフ、サポーターが結束を強めて乗り切ってきました。
仲間の追悼試合では監督も喪章をつけて指揮し、選手たちは退場で一人少ないながら、延長でホーム10連勝中の強豪東京ガスを打ち破ってくれました。
あの人とも、そのころはあの人が体調を崩していて会える機会が殆ど無くなっていたのですが、電話で定期的に話をして親交を深めていました。
 
そして2003年4月に、徳島県にプロサッカークラブと作ると宣言した飯泉新知事が誕生すると、プロサッカークラブ気運が急激に再興していきます。
そしてその年の11月16日、最強のライバルHonda FCとの浜松でのアウェイゲームで、念願のリーグ初優勝(99年より改称した日本フットボールリーグ)を決めました。
私にとっては、その前日に娘が生まれるという嬉しい出来事と連なり、忘れられない優勝になりました。
 
そして2004年、大塚FCのラストシーズン。
過去最強の力を発揮し序盤から2位以下を寄せ付けず首位を走る大塚FC。
しかし、関西でのあるアウェイゲームで徳島サポーターの一部の人がとったある行為が選手の感情を傷つけてしまいます。
その事件はすぐに関東隊にも伝わりました。
私は選手を傷つけたことが我慢できず、抗議の横断幕を関東隊だけが参戦した仙台での試合で掲げました。
それもすぐに徳島に伝わり、関東隊とAWASOULはサポーターとしての考え方の違いから対立してしまいます。
何度か話し合うも解決しませんでした。
あの人もこの事態をすごく心配してくれたのですが、体調が優れなかったこともあり直接話す機会がもてませんでした。
そして私もそのシーズンをもって大塚FCサポーターをやめる決心をします。
私の最後の試合は前年に初優勝を果たした時と同じ浜松で、同じHonda FCが相手で、同じく優勝が掛かった試合になりました。
そして去年と同じく優勝を決めました。
ですが、私には喜びよりも寂しさしかない優勝でした。
 
2005年、徳島ヴォルティスとしてJリーグデビューしました。
そのデビュー戦でヴォルティスはベガルタ仙台に3-0と勝利します。
私は現地の仙台に行きましたが、徳島ゴール裏には行かず、バックスタンドで一人でその試合を見ていました。
ですが、試合後はあの人と電話で会話をしました。
喜びに満ちていた声。
でも、それがあの人と交わした最後の会話になりました。
 
その年には別の出来事があって、私はサポーター稼業を完全にやめてしまいました。
あとは普通にお父さんしながら生きていこうと考えていました。
 
翌2006年、2月初旬のある日。
あの人が亡くなったと知らせが入りました。
突然のことに私はとても大きな衝撃を受けましたし、何が起きたのかわからず混乱しました。
体調が悪いとは聞いていましたが、どう悪いのかなどは知らなかったし、それに踏み込むのがはばかられたからです。
一体何が起きたのか、最初、何故かまったく情報は入ってきませんでした。
しかし、ある筋から顛末は伝わってきました。その話の中味は言葉にならないほどの厳しいものでした。
そして、私の中に消せない大きな傷ができてしまいました。
自分がもう少し近いところにいたならと思いもしました。
何か出来たのかなんてうぬぼれでしかないですが、気付いているべきだったことを見逃し、そして遠いところに自分から離れてしまっていました。
気が付いたら、失ってはいけない人を失ってしまいました。
そんな自分に猛烈に腹が立ちました。
そして、今からでもあの人がこなしていた役割を少しでもカバーしてあげようと決めました。
そして、徳島ヴォルティスのサポーターに復帰することにしたのです。
 
それ以降、私は徳島ヴォルティスサポーターであり続けています。
ヴォルティスサポーターは、しばらくは幾度かサポーター内やフロントと揉めることがありました。
私は話を訊いてあげたり、経験談から意見を述べたり、時には怒ったりもしました。
外から見ていると、サポーター個々のベクトルが揃っていなくて、自立もできていないように見える時期が続いていました。
最近はやっと足並みが揃ってきました。
私は徳島には住んでいないので、望むほどに力になれてないと思いますが、やれることをやってきました。
 
あの人はずっとJリーグで戦うヴォルティスを夢見ていました。
とても真剣に故郷の徳島を盛り上げたいと願っていたからです。
あの人の周りはすごく暖かくて、サッカーのゴール裏によくありがちな利己的で勝利優先主義な殺伐した空気はまったくありませんでした。
あの人はまさに徳島ヴォルティスというチームの、そしてサポーター全員のお父さんでした。
そして私も間違いなくあの人の子です。
だから父の目指したものを引き継いでいるわけです。
 
私はあの人が作ろうとしていた徳島ヴォルティスの花を、作ろうとしていたイメージどおりに咲かせてあげたいという気持ちでやってきました。
でも、時代が変われば咲く花も変わってきます。
徳島のヴォルティスサポーターはもう自立しているので、咲くなら彼らの花が咲くでしょう。
ならば、正直自分が果たす役割は殆どないと思っています。
年齢的にも、身体的にも、いろいろ力を尽くす時間も力もそんなに残っていません。
でも、もう少しだけあの人のためにヴォルティスサポーターを続けようと思っています。
まだJ1昇格という花を咲かせる仕事が残っているからです。
それが果たせたら「もういいかな?」とあの人のところに訊きにいこうと思っています。
それまでもう少しだけ頑張らないといけない。
でなきゃ訊きにいけないですから。

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コメント

浜口も、天国で観戦してますよ。

必ずあえるし、

どうせあうなら、土産話をいっぱいもっていこう^^

投稿: 吉川慎太郎 | 2014年5月10日 (土) 00時34分

まだ昇格する前の記事なので今読むと不思議な感じもしますね。

投稿: アワン渦帝 | 2014年5月10日 (土) 08時02分

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